「集団規準の怖さ」
2004.9.1

 今、NHKの大河ドラマで『新撰組』を放映している。
なぜ今、新撰組なのか良く解らないが、時代のうねりや背景よりも新撰組幹部の内紛や内面的な苦悩などを中心に展開している。

 先週は、隊長の近藤勇を慕って行動を共にし、結成の功労者の一人である山南敬助を土方副長が追いつめ、切腹をさせるという胸の痛む場面であった。近藤勇は断腸の思いで、新撰組を守るため土方の主張を認めざるを得なかった。

 記録によれば、隊員約150人の内、京都の治安の職務で浪士と戦って死んだ隊員よりも、法度による粛清によって尊い命を失った隊員が三分の一近くあったという。何と悲惨でやるせない血も涙もない仕業であろう。
 この場面を見ながら、忘れかけていた「浅間山荘事件」を思い出した。
全学連・革マル派といったセクト主義や、イデオロギーによる対立だけではなく、仲間同志が「掟」によって、しばられ追求し合い、最後に総括という言葉で粛清し殺傷されてしまう。

 それにしても、人間はなぜこんなにも残虐になれるのだろうか。私にはどうしても解らない。
 一人ひとりは個人としては常識的な倫理感を持ち、人道的な人間愛を持っているのに、集団になると人格が変わってしまうようだ。

 これは「集団規準」といって、人間が死に直面すると、一人ひとりの人間よりも集団の方を優先する宿命のようなものが支配するそうだ。
 この組織を維持するため、その機密を守り、目的を達成するために、その妨げになるものは除外する。目的が正しく是であるから、これを倒し粛清することも是であると都合の良いように勝手に考えてしまう。

 この際たるものが「戦争」である。自分の国が勝つ為には手段を選ばず、どんな卑劣な行為も勝利の為に許されるという錯覚に陥ってしまう。イラク戦争も中東紛争も、一人ひとりの個人は平和な社会を希求してやまないはずが、国家・民族・宗教という「集団規準」が支配すると、引き返すことの出来ない泥沼に入り込んでしまう。

 人間は、社会的動物であって一人では生きられない。集団やグループを作って行動し、発展を続けてきた。
 特に日本人は、「むら社会」を作りがちで、「赤信号みんなで渡れば恐くない」という言葉に代表されるように、自分の意志より回りの動向に気を使ってきた。

 バブル経済が崩壊して以来、これから求められるべき「キーワード」は、「ナンバーワンよりオンリーワン」であると思う。人真似ではなく、個性を尊重した「違い」を認め合う社会でなければならない。

 今、「正しいことを正しい、悪いことは悪い」と、人はどうあれ堂々と主張出来る「本当の意味の自立」と、「強い意志を持つ個人の育成」こそ、人づくりの基本であり、急務と考えるのは私だけではないと思う。