「二番・セカンド」
2004.6.14

 先日、富士宮野球連盟の副審判部長が46才の若さで亡くなってしまいました。
心も体も健康そのもので、15年もスポーツ少年団のコーチとして子供達に愛情を注ぎ、指導してきました。
 審判も高野連の一級審判員として、その力量を高く評価され、将来を嘱望されていました。仕事の面でも、I製作所の工場長として、その手腕と人柄によって成績を上げ、周囲の人望を一心に集めていました。
 そんな「男の中の男」とも言える優秀な人材が、心筋梗塞という病魔に襲われ、一瞬にして失ったことは、人の世のはかなさ・無常を痛切に感じました。
 そして、命の尊さと、自らの言動について深く考えさせられました。

 このY氏は、もの心のつく頃からの野球少年で、小学校からの学生時代、そして社会人と、野球一筋に生き、人の出会いを大切にしていました。会や団体の世話、事務局的な存在として、伴すればみんなが嫌がる仕事に率先して汗を流してきました。
 葬儀が、ピーンと張りつめたような悲しみに包まれたことは、夢想だにしない突然な逝去であったことだけでなく、Y氏がどれだけ多くの人々に頼りにされ、愛されていたかの証しでもあると、私には思えました。
 その源泉は、Y氏の日頃の生き方・生き様にあったと確信することができます。
 そして、Y氏の生き方は、いつも「2番セカンド」という打順とポジションに関係があるように思えてきます。

 2番という打順は、1番が出塁すれば、バンドなどで自らを犠牲にしてランナーを塁に進め、3番・4番の主軸につなぐ役割で、自分が主役になるのではなく、お膳立てをする役なのです。
 また、セカンドのポジションは、内野手のかなめであって、併殺(ダブルプレー)や、バンド処理への動きなど、より素速いフットワークと頭脳的センスが要求されます。
 おそらくY氏は、少年団の頃から大学野球まで、「2番セカンド」のプレーに専念してきたことが、彼の生き方に連動していたのではないでしょうか。
 また、Y氏がこのような素晴らしい生き方が出来たのは、ご両親をはじめ、家庭環境、友人やチームメイト、会社の仲間や同僚、野球を通じて出会ったY氏を取り巻くすべての方々が、彼にとってもかけがえのない人々であったからに違いありません。
 あってはならない不幸ではありましたが、ひとりの男の生きざまに、珠玉のドラマを感じました。